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【 現地案内文 】
坂本龍馬とワイル・ウエフ号遭難(潮合騒動)
ワイル・ウエフ号は、幕末の土佐浪士坂本龍馬が薩摩の重臣小松帯刀の了解を得て、薩摩の援助のもと、長崎のグラバーより購入した洋型帆船で、土佐脱藩の浪士を主体として結成した亀山社中の練習船として使用をまかされた船である。
船籍が薩藩であるため、命名式のために慶応二年(1866年)四月二八日、長崎を出航、長州藩の蒸気船ユニオン号に曳かれて五島灘を鹿児島に向けて南下した。
ユニオン号は、ようやく成立した薩長連合による第一回の親善使節という含みもあって長州米五〇〇石を積んでおり、船脚を揃えるために両船はロープでつなぎ合わせていたが、五月一日午前六時頃甑島沖にかかった頃から東風が激しくなり、夜十時頃には大暴風雨に発達、両船をつないだロープは衝突を防止するために切断した。
ワイル・ウエフ号の船長黒木小太郎は天草に避難しようとしたができず、北に流されて五月二日午前六時頃、島影を認めたと思ったとき船は浅瀬に乗り上げ、船将黒木は腰の刀を海に投じて神に加護を祈ったが、空しく大波にのまれ、士官浦田運次郎、薩藩士村上八郎、水夫市太郎、三平の四人のみが助かり黒木以下十二人が死亡する悲惨事となった。
この遭難場所が江ノ浜の潮合崎で、村人の急報で有川代官近藤七右エ門は早速、速船で現地に直行し、五島藩に急報した。これがいわゆる潮合騒動である。
龍馬は寺田屋事件でようやく難をのがれて左手の傷を鹿児島で療養中であった。六月十四日鹿児島より下関に赴く途中、社中の一行を連れて五島に渡り、自分で碑文を書き、土地の庄屋に金と共に与えて碑を建立させ、同志の霊を慰めまつった。
江ノ浜の共同墓地に今も碑文、遭難者名を刻した墓碑がたっている。
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