その当時、熊本県東陽村(霊台橋のある砥用町から南南西、八代市の東隣)を中心に活躍する石工達がいた。彼らは種山石工【たねやまいしく】と呼ばれ多くの石橋を手掛けていたようだ。その精巧な石橋架橋技術は、その後名声となって響き渡ることになるのだが...
始まりは長崎奉行所で勤めていた藤原林七【ふじわらいりんしち】氏である。藤原林七は、オランダ人からこっそりと石橋の造り方を教わったという。当時は鎖国時代であるから、外国人との交流は禁止されている中に危険を承知で教わったもので、見つかれば大変な罪であっただろう。そのような環境下で技術を身に付け、このとき円周率も習ったそうだ。たぶんに石の組み上げ実習は出来なかっただろうから、よく技術習得できたものだと感心する。その後、危険を察知したのだろうか、隠れるように当時種山と呼ばれていた現東陽村に移り住み、そして技術を磨いてきたと言われている。その技術が脚光を浴びるようになったのが、孫の代になる卯助【うすけ】、宇市【ういち】、丈八【じょうはち】、甚平【じんぺい】の兄弟による石橋群である。
話が前後するが、評判を聞きつけた篠原善兵衛は、石橋架橋を頼むなら彼らしかいないと、卯助兄弟に話を持ちかける。
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