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 南洲神社と西郷隆盛謫居記念碑 (鹿児島県大島郡和泊町)    site up 2006/01/25
南洲神社と西郷隆盛謫居記念碑1
この牢屋のなかで座禅・瞑想にふけっている御仁は幕末から明治の初期に活躍した「南洲さん」こと西郷隆盛公。

西郷隆盛公は文久2年(1862)、薩摩の国父・島津久光公の怒りにふれ沖永良部島へ流罪【るざい】となり1年6ケ月牢獄生活をされた。隆盛公、35歳の事である。

牢中の隆盛公は常に正座し読書に耽【ふけ】り、牢外に集る若者たちに古今聖賢【せいけん:賢人】の道を教え、また台風やかんばつ、飢饉に備え豊年の時に皆で米や麦などを高倉に蓄えておき凶年の時にそれを配給するなどの手法「社倉法」を伝授した。
受け継いだ島民により明治3年(1870)には沖永良部社倉が設立されるなどこの島に多くの余徳を残した。
井伊直弼【いいなおすけ】が尊攘派に対しておこなった弾圧事件、世にいう「安政の大獄」によって僧・月照【げっしょう】と西郷は絶望し錦江湾に身を投じ自殺未遂をはかった。奇跡的に西郷のみが助かったが武人としての恥として苦しみ、藩からの命令もあって3年間奄美大島で潜居生活を送った。
その後、召還命令によって再び藩士としての勤めを行うも国父・島津久光の上京計画の際、それを薩摩藩が倒幕に踏み切ったと勘違いした一般の浪士や他藩士らなどを諌めに大阪入りするが、命令に背いたとして西郷に激怒した久光により、徳之島〜沖永良部島と流罪になるのである。
そんな波乱にみちた西郷隆盛公であるが、ここ沖永良部の過酷な牢獄生活のなかで精神を練磨し彼の思想として完成させたのが有名な「敬天愛人」【けいてんあいじん】と言われている。
南洲神社と西郷隆盛謫居記念碑2
南洲神社と西郷隆盛謫居記念碑3 南洲神社と西郷隆盛謫居記念碑4 南洲神社と西郷隆盛謫居記念碑5
南洲翁の牢獄生活を再現してある 「敬天愛人」発祥の地 和泊港の様子
南洲神社と西郷隆盛謫居記念碑6 敬天愛人」とは
「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也」

つまり「何事でも道というものは天地自然によるものであり、人はこの道に沿って物事を行うべきものであるから、何よりも天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である」ということである。

この隆盛公の思想は西郷南洲翁遺訓というものに纏められ書として出版されている。佐幕派(対倒幕派)であった庄内藩(山形県)が明治維新での戊辰戦争【ぼしんせんそう】によって敗北したにも西郷の温情ある処置に感激し、慕うようになりその教えを学び纏められたそうである。この事からも隆盛公の人物としての大きさ、そして人として生きるべき正しい道というものを教えられるような気がする。
南洲神社と西郷隆盛謫居記念碑7 南洲神社と西郷隆盛謫居記念碑8 南洲神社と西郷隆盛謫居記念碑9
西郷隆盛上陸之地、記念碑 記念碑は和泊から島の反対側、伊延港にある 南洲神社の境内
元冶元(1864)年2月21日、赦免を受けた隆盛公は沖永良部島を後にし新たなる戦いの大海原へと出航したのである。

鹿児島の輩出した偉人、西郷南洲翁。流罪され過酷な牢獄生活を送りながらも精神鍛錬し、九州本土から南へ540kmも離れたここ沖永良部島に多くの余徳を残した。

その後、西郷南洲翁に感謝した島民たちは明治35年(1903)、ここ和泊に南洲神社を建立した。沖永良部島を訪れた際にはぜひ立ち寄りたいスポットである。


南洲神社は空港方面から和泊町に入り(15分程度)道路沿い右側、西郷隆盛謫居記念碑は道路を廻りこんだ左手(歩いてスグ)にある。伊延港脇に建つ西郷隆盛上陸之地・記念碑までは車で7〜8分程度。
南洲神社と西郷隆盛謫居記念碑10
 関連リンク 和泊町ホームページ  
   

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