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【 現地案内文 】
眼下に広がる関門海峡は、一日七百余隻が通過する国際航路であるが、日本の歴史の中に華々しく登場し、やがて散っていった平家滅亡の哀史の地としても有名である。
寿永二年(1183年)英華を極めた平家も衰えを見せ、永年勢力を争った源氏の木曽義仲【きそよしなか】に追われ京都を逃れた。平家は平清盛【たいらのきよもり】の外孫安徳【あんとく】天皇を擁して、百艘ばかりの船に乗り、平家ゆかりの地九州の宇佐八幡を頼ったが、平重盛【しげもり】の家人であった緒方三郎惟義【おがたさぶろうこれよし】の裏切りにあい、やむなく筑前の大宰府天満宮に入った。
しかし、ここも安住の地ではなく、遠賀川河口の山鹿城(芦屋町)に落ちた。城主山鹿秀遠【やまがひでとお】と香月【かつき】の庄(八幡西区)香月氏とは共に平家を助けたが、山鹿城へも惟義の軍が押し寄せると聞き、安徳帝と平家一門は小船に乗って夜もすがら響灘を東へ向かい、豊前の柳が浦(現在の門司区大里)に上陸した。
平家は柳が浦に内裏(この古事により、今の大里と改められており、大里には安徳天皇の行在所【あんざいしょ】となったと伝えられる柳の御所がある。)をつくろうとしたが、もはやその力もなく、また、長門(下関側)からの源氏の襲撃もあるので、瀬戸内海を東へ逃れた。
東へ進んだ平家は一時勢いをもりかえしたが、摂津の一の谷、四国の屋島で源義経【みなもとのよしつね】の奇襲にあい敗退、再び北部九州へ向かい、これを追って西下した源氏と関門海峡で対峙【たいじ】した。
寿永四年(元暦2年、1185年)三月十四日の卯の刻(午前六時ころ)、早鞆【はやとも】の瀬戸(関門海峡)のうず潮の中で海戦が始まった。
四千余艘の船が、源氏は白、平家は赤の旗印をなびかせて入り交じった。
当初平家が優勢と見られたが、源氏の勝利を予言する種々の奇跡が現れて、四国、九州の平家方の寝返りと、船の漕ぎ手を先に倒すといった源義経の巧妙な戦法により、その日十六時ごろ平家の敗北は決定的となった。
平清盛の妻で、安徳天皇の祖母二位尼【にいのあま】は、もはやこれまでと、御座船【ござせん】から八歳の幼帝をいだいて「浪のしたにも都のさぶろうぞ」と海中へ身を投じた。帝の母建礼門院【けんれいもんいん】もこれにつづいて入水、平家の武将もつぎつぎと身を投げ、ある者は鎧を重ね、碇を背負い海に入った。
「おごれる人は久しからず、唯春の夜の夢のごとし」五年間におよぶ源平両軍の戦いは史上まれに見る大規模な海戦でその幕を降ろした。
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